(日記)

日常系Youtuber動画を2本くらい観て気に入ったのでチャンネル登録する。間に入るコマーシャルの100倍くらいいい。


どうして人は(=自分は)自分と同じ考え方をしない人を自分より下に見る(言う)のだろう。

不愉快だから。

不愉快だと感じる自分も自分なので尊重したい。同時に表現して伝えなければなにも起こらず、伝えるなら伝わるように伝えた方がいいとも思う。完全に直交する概念でもないので、バランスをとりつつ取り組みたい。

自分の感性と会話力をもっと信じよう。できないと諦めることで責任を逃れているとしたら、よろしくない。やってみてできないとやらないのはだいぶ違う。


カーリング女子世界選手権の中継を楽しく観ている。

NHKのアナウンサーが、中部電力カーリング部のメンバーは元男子日本代表とナショナルコーチ(外国人男性)から「指導を受けている」と言っていた。違和感。野球やサッカーの男子日本代表チームがコーチに「指導を受けている」っていうか?アンディ・マレーならなにか皮肉なり指摘をするとこと思うので、僕もこの発言は問題だと指摘しておきたい。


会社が大きな仕事を重視する=小口の仕事を軽視するのはこれは構造的宿命かも。というところまでは理解しないでもない。けど、受け入れるかどうかは別の話だ。そしてこのような断絶はないか、ある前提ならなんらかのよい方向へのエネルギー源として用いられるべきだ。


新しいスマホをネット通販で買った。SIMフリー。SIMサイズが今使っているものと変わるのでキャリアに変更申請をしたら、まず現在のSIMを止められた。明日以降新しい(別サイズの)SIMが来るのだろう。しかしこの空白期間なんとかならんもんか。


睡眠負債は健康的に絶対悪なので改善が急務だなあ。と思ったその日に夜ふかししてしまっている。なにかしないと。

勤続30年ですって。

勤続30年ということで、一週間の休暇をもらいました。明日から家族と台湾に旅行に行ってきます。

勤続10年目の休暇では、妻の両親弟と沖縄に行きました。勤続20年目は仕事がうまくいっていない時期で、どうしたかあまり記憶がありません。30年目の今はわりと楽しく仕事ができていて、またひどく忙しくもないので、こうして旅行できて嬉しいです。

8%の学生はふてくされて回答を空白のままにする

プログラミングできる人とできない人との間の深い溝 - masatoi’s blog

興味深いのでブログに書こうと思っていたら追記で論文は撤回されたとあって、あれれという感じなんだけど、やはり書いておくことにします。

  • 学生の44%は代入がどのように働くかについて一貫したモデルを持つに至る(たとえ正しくなくとも)
  • 39%の学生は代入のモデルとして一貫したものを形成できない。
  • 8%の学生はふてくされて回答を空白のままにする。

ここがよかったですね。ふてくされて回答を空白のままにする、というのが。乗ってこない人たちを冷静に扱っているところがいい。

教育とか、積極的なマネジメントや組織運営は、なんらかの働きかけに反応というか、受け入れて取り組む姿勢を発揮してもらうことで成り立つ手法を取ることが多い。これはなんというかニュートン力学のような古典ぽさがある。そもそも働きかけそのものやそれを行う側が暗黙に用いているモデルとかパラダイムみたいなものを受け入れることが障害になりえるとか、認知に個性があるので期待したとおりには受け取ってもらえないとか、さまざまな利得ベースで人は行動するとかいった現実に、ちょっとあってない。その点ふてくされるグループの存在を認めるのはいいなあ、と感じたわけです。

でようするに、モダンな心理モデルとか行動経済学的な解釈をベースに、教育とかマネジメントとかしたらいいよね。ということを言いたかったのですが、言葉にしたらすごく内容がなかった。すみません。僕からは以上です。

心理的安全性には責任が伴う

もっとも、「心理的安全性」は“ぬるま湯”と紙一重。チームとそのメンバーに大きな責任や使命、ストレッチな目標が与えられていなければ、雰囲気が快適なだけに、ただの仲良しグループになりやすく、個々の働き方も現状維持に流れてしまいます。今回、グーグルにおいて、「心理的安全性」と生産性との相関関係が認められたのは、裏を返せば、同社のビジネス面での厳しさの表れと見ることもできるのではないでしょうか。

「心理的安全性」とは? - 『日本の人事部』

全く理解できない。なぜ心理的安全生とぬるま湯が紙一重なのか。シートベルト着用が普及したら皆危険な運転をすると考えたか。もし心理的安全性を確保して問題が出るのであれば、問題が明らかになったのでよかった、みんなで解決しようとすればいいだけで、まさにそのための第一段階が心理的安全性だったことを指摘したい。そういうことを言う人は、心理的なんとかを与えればあとは自分が思うように皆が働いてくれる魔法かなにかだと思っているのか。チームのメンバーと建設的な対話ができるための下地なのであって、与えて完了対話など必要なしということがあるわけがない。心理的安全性という言葉を使ったパワハラなんて悪夢だと思ったのでこのエントリを書きました。

見られる用文化、日本的知識共有スタイル

「見られる用文化」

「見られる用文化」のはざまで?番外編ー女の子と友達になれるのは誰か|宇井彩野(百合人企画)

確かに、ありとあらゆるところに女性を見られる性として扱う文言や風習が蔓延していて、僕はそういう空気を知らずにここまで来られたことは事実であり、ずっとそれととも生きてきた人の気持ちを理解することはできないかもしれない。でも別にそれは絶望とか断絶ではない、と思いたい。絶望だけしてもなんにも誰のためにもならないだろうし。

日本(あるいは東アジア?)では、理論は構造化して示し理解するものではなく、どっぷり使って会得するもの

その後羽生善治七段の「決断力」を読んだけれどもまったく同じである。まあ、トヨタのOBの方も羽生七段も学者ではないので構造化する動機などないのかもしれないけど。どうあれ、日本人の達人が語るとき、本当に実に、フラットに日めくりのエッセイのようにエピソードを語る。そしてそれを学ぼうとする心持ちと姿勢を日々続けるなかで、やがて腹落ちして、暗黙知暗黙知のまま伝わる。これが日本(あるいは東アジア)の知識共有スタイルである。いいとかわるいとか今日的かどうかとかとは別に、そうなのだ。これを出発点として、それじゃあ、どうしようか、という話だと思っています。

日本人は知識を非構造化データとして持つ

ちょっと主語が大きいのと断定口調なのがやりすぎですみません。正確には、僕が所属している会社の僕から見える範囲の人たちは、知識を非構造化データとして持つ傾向があるような気がする、であります。

構造化データとしての開発方法論やマネジメント技術

アジャイル系のソフトウェア開発方法論やマネジメント技術体系などは、価値観、原則、実践項目という要素によって構築され説明されますし、ビジネス組織の運営においては、理念・ビジョン、目的、目標、評価指標、といった要素の組み合わせが使われます。それらの要素はツリーないしリンク構造を持ち、意思決定とふりかえりの指針になるわけですね。
西洋(たぶん多くは米国)発の知識や方法論は上記のような構造を持ったものが多くあるように思います。*1

日本人は構造化しない

対してわれわれ日本人は、そのように方法論を構造化することを好まないのではないか、と思います。構造化せず、エピソードや訓示を蓄積していく。それらは暗黙知となって組織に浸透している。個々のエピソードや訓示に通底する原則や価値観、それは必ずあり、それは表出・言語化はしないものの理解共有されていきます。
西洋的な構造化された知識は明確でそれについて議論したりすることが容易で、ルールとして用いるのに適しているだろうと思われます。対して日本的な非構造化、非言語の知識は、ルールというよりも、文化とか、あるいはマナーのような制約を形成するだろうと思います。

おまけ。訓示をチェックリスト化するのは間違い

日本人にとっての知識を構成する訓示を列挙してチェックリストにしようとするのは馬鹿げています。網羅性なんてないし、チェックリストにすることで機械的に用いることそのものが、訓示から学ぶという本来の知識のありように反するものだからです。

*1:それらの知識や方法論の論者はそういう構造が好きなのか、彼らの受けた教育や、それらのバックボーンにある文化の特徴なのか。ただし、それは、構造化「かぶれ」の人が紹介することが多いから、なのかもしれません。

2018年を終えて、年末に思うこと

素直になれない気持ちはわかるけど、もうわかってはあげない方向です

世の中には不均衡はありますし、避けていること、隠していること、許せないこと、取り返しのつかないこと、いろいろあるのもわかります。でもそれらに振り回されて余計な痛みを引き受けることはいやだ。痛みを隠して振る舞うことに酔うことで代替とすることはできません。コミュニケーションは対等に、言われてないことは知らないことだし、言われたことにはできる限り応えようとする。そういうシンプルなコミュニケーションしかできないです。ひねくれたものの捉え方や考え方や表現の仕方には、シンプルに、わからないですね、賛同できないですね、いやです、と答えます。決別の宣言です。2018年、まあ、平成とともにさよならを言います。

人は見て学んで成長して文明や文化さえ築いてきたけど、それだけじゃ

子供はそうやって言葉を覚え世界を知るわけですし、とりあえず周りを見て形式的に従うことが出発点になるのはわかります。でも、そればっかりでは。どんなことでも自分の外に軸を置いたら振り回される宿命になってしまいます。自分で判断するしかない。とりあえずこれまで通り、みんながやってる通り、から抜け出せないのはだめです。そんなのにはノーと言いますよ。それで僕が出せるものはちんけで不十分で非難できる点は多々あるでしょうが、主体性を持たないで残りの人生を生きるなんてまっぴらです。