所属欲求は求め足りないのか、満たされ足りないのか

あまりにも興味深いので、もうちょっと考えてみます。僕はシロクマさんのように専門知識はないので、上っ面ですよ。

まず、現代社会において、帰属欲求が追求されてないかというとそんなことは全くないなと思いますね。言及されることは、承認欲求より少ないですけど。

例えば、Twitter民とかはてな村とかいうじゃないですか。特に○○民とかは自称で肯定的に使うことも少なくない。早い者勝ちに縄張り作った人がそのままプレゼンスを保てるみたいなところあります。

あと、ツィートにも書きましたけど、負の所属欲求(と僕が勝手に呼びました)が無視できなくないですか。なんのことかというと、誰かの所属欲求を踏みにじること、そしてそれを通じて自分の所属欲求を満足させることです。具体的には、いじめとか、同調圧力とかですね。

単になんらかの集団に所属し満足するというレベルからはるかに進化していると思うんです。誰かを所属させないとか、所属するためのハードルをやたらと上げて反応を見て楽しむ。それらを通じて、集団の格式(誰でも入れるわけじゃない)は上がり、所属欲求の充足感がより高まると。

単にこの人のこういうところが好きじゃない、というときに、それを個対個の関係性で処理せず、集団からの村八分に持ち込もうとする。おそろしー。

ということですけど、どうでしょうか。元記事はあと2回続編が公開されるということなので、それらも読んで、また考えてみたいと思います。とりあえず今日はこのくらいで。それでは!

## 追記(2017年3月12日)

あらためてシロクマさんの第1回のエントリを読みなおしました。

所属欲求ってそんなに衰退してますかね?

僕の所属欲求というものの理解が間違っている可能性は大いにあります。そう断ったうえで書きますけど、人がある種の行動様式に従ったりするのは所属のためじゃないんでしょうか。分かりやすい例だと、ある種の人たちは黒のミニバンにゾロ目のナンバーを付けて乗るじゃないですか。あるいは、ある種の人たちが有意にしばしばチェックのシャツを着ていたり、Twitterのアイコンにアニメのキャプチャ画像を使うじゃないですか。これって、まあ、その振る舞い自体が好きだからやっているんでしょうけれども、それにしては様式的なので、これは所属の表明であり、そこから+αを得ているのではと思うんですね。積極的、能動的な集団への関与やその意識はないかもしれないけど、めっちゃくちゃ所属していると思いますよ。

と思ったりしつつ、シロクマさんのブログエントリの続きを待ちたいと思います。

## 追記(2017年3月13日)

所属欲求の根源は承認欲求かもしれませんが、所属欲求が満たされればかなり満足できて、所属欲求が充足しないときに承認欲求一本で勝負することになり、こじれやすくなる、という図式のような気が。

なんか、自分の中ではもうどうでもよくなりつつあります。徐々に春らしくなりつつあるので、外に出るとかビール飲むとかしようぜ。

## 追記(2017年3月19日)

シロクマさんのブログエントリの続き(第二回)が投稿されていたので読みました。江戸時代からこっちの承認と所属のありようについて書かれてますけど、うーん、しっくりきません。シロクマさんの中では一貫性があるのでしょうし、(こう解釈すると辻褄があうという以上の)論拠があるのでしょうが、よく分かりません。なんかシロクマさんの解釈に関心を維持できなくなってしまいました。