夏休みになったのでうれしいあまり、なにか忘れてんじゃないかと不安になっています

「最近〇〇だったりするけどさ」という型でのものの考え方

世間とか、社会とか、ある世代の人たちの行動様式だったり、マスコミの報道だったり、流行だったり、そういったものに対して、自分の感じていることを述べるときの考え方のことです。

もともと対象があいまいなので、どういう認識と根拠でそう判断しているのか、説明と共有が必要な場では、いきなり結論から話すとめんどくさいことになりがちです。

昔は世間その他を知る方法も限られていたし、その感想を話す相手も限られていたので、結果はシンプルだったのかな、と思います。対して現代では、世間を知る方法としてさまざまなパス、特に大きいのはネットですね、ネットの中でもいろいろある、が出てきて、世の中のことがよくわかるようになったと言えますが、見える断片、ある角度からみただけの情報、が多くなりました。しかもどういう情報をどのように仕入れるかもパーソナライズされています。なので、それについて会話したりするときに、コンテキストが合っていることが相対的に望みにくくなってきた、と感じます。

恋人や夫婦だって、普段使っている情報源が違って、世界に対して持っている印象や理解が、まったく異なる(ので、それを題材に話すことが結構難しい)なんてことある気がします。

ましてや、Twitter上なんかで話すと、コンテキストを共有しているお仲間からは共感が得られる反面、まったくそうは思っていない一言居士さんたちからはクソリプ頂けちゃって、大変なことになったりする、なんてあるように思いますね。現代的なできごとだと思います。

で、もう、世間に対して感想を持つ、という行為が、対象が公のものであるにもかかわらず、極めて個人的なものでしかありえない、ということに対して、自覚的になる必要があるのかなあ、というのが今考えていることです。

昔みたいに簡単に「最近の〇〇って□□だけど△△だよなあ」なんて(よっぽどコンテキストが合っている間柄じゃないと)言えない。ましてや、嘆かわしい、みたいな個人的な認知を経た感想あるいは断定は、共有しづらい。

世間に関心を持って、自分の立ち位置と考えを持つ、というのは、単純に好ましいことだったと思います。昔は。今もそれはそうですけど、関心の持ち方、世間というものの捉え方にていねいさが必要かな、と思っています。

またしても具体性のあまりない話で申し訳ない。

コンテキストを共有している場で、わかるわかると言われたい

人間、承認を得たいです。

自分の考えを述べるという行為は、集団帰属意識が強く、暗黙コミュニケーションを好む我々日本人にとっては、私はこの集団を信頼しています、安心しているのでこのように考えを述べます、という意味であり、当然ある程度受け入れられることを期待しているような気がします。

ところがその当たり前に思っていた気持ちが裏切られると、著しく混乱する気がします。傷ついたり、極端な反応を取ってしまったり。

クソリプが来て鍵垢化、みたいなね。

この考え方、この表現の仕方でいいですか、と先輩や偉い人のレビューを受ける機会もあるでしょう。レビュワーの人はダメ出しするのが仕事ですからダメを出す。昔のしくみだと、別にフォローするのが仕事の人(レビュイーの上司とか血縁者とか)がいて、その人がフォローし、再教育し、承認できるレベルへ導き、みな丸く収まる、というシナリオがありました。

ところが現代はそれが失われつつあるように思います。

コンテキスト共有のための努力があまり払われなくなってきているのではないか、という私見

これは先にかいた、最近の世間ってこうじゃね、の話なので、慎重に話したいところです。

昔は社会規範はシンプルだったし、所属する組織のコンテキストは覚えて扱い方を身につけるもの、ということは単純明快だったと思います。(もちろんだからといって簡単だったり必ずだれでもできたわけでもなく、身につけられず組織に同化できない人も確実にいて、そういう人はいろいろつらかったり大変だったと思います。)

今は、昔に比べると個人主義が強まったり、多様性が許されるようになりました。組織の文化を新入りに教える現代的なやり方というものはさっぱり確立されず今に至っているように思います。結果、コンテキストを深く共有することなく、ただ表面的な理解と動機だけ持って、同じ組織にいる人が増えた(相対的にね)ような気がします(という仮説です)。

なので、何考えてるかわからん、とストレスを感じるようなこと、コミニュケーション不全によるさまざまな問題やロスが生じているように思います。単に言葉が足らないというだけの話でもなくて、文化を共有していないけれど、文化を共有している前提のコミュニケーションや共同活動しか知らない・できない、という根の深い話なのです。

さらに、これがポイントだと思うのですが、昔はモデルがシンプルで、組織に人が加わるときにいかに文化を教育するかも、シンプルな方法が決まっていました(それが必ずしもうまくいっていたわけでもないのですが)。今は前提の環境が大きく変わり、ひとりひとりの気持ちや認識も多様化してきたので、単一モデル方式は崩壊の危機にあります。さりとてそういう変化に適応した新しいフレームワークパラダイムの構築は進んでいない。だれもそれを主導したり積極的に関わる動機がないんです。そういう状況なので、文化共有のための新しい導入教育プログラムなんてものも作られていいないです。結果として、教育レベル、文化レベルは今低下の方向にあるのではないでしょうか。

よくいろいろ嘆く意見がTwitterとかネットニュースなどにありますが、そうでしょうね、って感じです。

アジャイル開発の場合

アジャイル開発は、批判的な意見として、幼稚園っぽくて気持ち悪い、と言われたりします。これはみんなの苦手なコンテキスト共有をあえてしようとしている、しかも、どういう仕方がいいかは本当はケースバイケースなんですけど、とりあえず汎用性が高いだろうということで紹介されているやり方がジェネリックななので、そういう違和感を感じるのでしょう。気持ちは分かります。でも、なんらかしないと効率的に顧客価値を得る(ように変える)ことはできないですからね。

痛みはありますよ。と思いますが、痛みがあるけどやろうね、という合意ができていない(なにもしないとそんな合意はない)と、話こじれますね。