無責任のための責任感

最近どこかで読んだ話ですが、ある寓話で、暴走するトロッコが向かう先に5人の人がいてこのままでは5人の命が危ない。そのレールの途中に切替器があり、切り替えればトロッコは別の方向へ進み、そこには1人の人がいて、そうすればその1人の命が失われる。今あなたは切替器の前に立っている。どうする?という問。これに対して、自分は何もしない。なぜかというと、切替器に触らなければ、5人が死んでも自分が起こしたことではなく責任はない(と主張することができる)。しかし切替器に触れば、結果は自分の判断ということになる。少なくとも1人は死ぬ。責任が回避できるか、人を殺すかの天秤であれば、答えは自明だ。という答え。

とても人間らしい。現実の人間にとっての合理性というものについて考えさせられる。

知り合いの会社の話だけど、管理職がなんも意味ある判断をしない、という。何もしないか、たまになにかするときには、上に言われたからやるんだとかで意義や意味の分からないことだったりする。上に報告できるように説明してくれと言ってくるのだそうだ。そういうものなんだろうな。自分で判断して行動(部下に行動させる)をしたら責任を取らなければならない。上に指示されたことなら言われた通りやるのはやぶさかではない。責任は自分にはないからね。

とても人間らしい。人間臭くてむせ返るようだ。