人の認知を歪んでるとか言うな!

次の名古屋アジャイル勉強会でストレスについて取り上げようと思って、今ワークショプ資料を作っています。

ストレスは刺激と認知と反応から成り立っているというのはご存知の通り。刺激は外部だから、反応は複雑な成り立ちをしているから、それぞれ変えるのは難しくて、変えるなら認知だよねみたいな扱いがされていますが、

もうそれが気に入らないですね。認知は人となりそのもの。そういうものごとの捉え方が、他者からいかに非合理に見えたとしても、本人にとってはそうであるべきことなんです。それを、軽々しく非合理だとかなんだとか言うような無神経さは本当に許せない。そういうことを公で言う人は夜道で刺される覚悟をしといてください。そのくらいのことです。

ウォーターフォール(の下層の方)をやるなら青臭いことは言わず上のやること求めることに応えることだけを考えて、全体最適や大きな視点で観た無駄を口にしたりしないこと。アジャイルをやるなら保留したり様子見したりしないこと、嫌いな人が失敗するのをいい気味だと思ったり言われないのをいいことにやらないってな姿勢をとらないこと。指向が違うだけでイデオロギーだってのは同じなので、できたからどうだとうわけでも、できないからどうだというわけでもないです。他人に妙に厳しかったりある価値観のもとで他人を悪くいっても正しけりゃいいんだみたいなのはほんとだめですよ。

内側と外側

ある感情が生じたり、その感情を持て余したりするとき、その責任や原因を外側に置く人と内側に見る人がいます。それ自体はどちらでもいいです。けど、だからといって簡単にあの人わかんねえって言ってしまったりわからないからと自分のやり方を一方的に押し付ける人はほんとうにだめだ。イマジネーションが足りなすぎるし、行動に責任がなさすぎる。わかれ!

とここで言ったところで変わるわけもない。付き合いますよ。それが人生であり世界ですわ。でも疲れちゃうときもある、ってことです。

名古屋アジャイル勉強会

というネームスペースを早いものがちでおさえて使っていますが、欲しい人にはあげます。いつでも言ってください。僕は僕がこのネームスペースを持っていること自体には全然こだわりはありません。

僕は老人になりたい

(負の)感情は欲求が毀損されたときに生ずるのだそうですよ。

僕は感情のない人間になりたい。欲求などない人間になりたい。

大槻ケンジの大昔の恋人が口にしたように、老人になりたいですよ。

欲求など満たされないのだから、手放すべきにきまってるじゃないですか。