日本人は知識を非構造化データとして持つ

ちょっと主語が大きいのと断定口調なのがやりすぎですみません。正確には、僕が所属している会社の僕から見える範囲の人たちは、知識を非構造化データとして持つ傾向があるような気がする、であります。

構造化データとしての開発方法論やマネジメント技術

アジャイル系のソフトウェア開発方法論やマネジメント技術体系などは、価値観、原則、実践項目という要素によって構築され説明されますし、ビジネス組織の運営においては、理念・ビジョン、目的、目標、評価指標、といった要素の組み合わせが使われます。それらの要素はツリーないしリンク構造を持ち、意思決定とふりかえりの指針になるわけですね。
西洋(たぶん多くは米国)発の知識や方法論は上記のような構造を持ったものが多くあるように思います。*1

日本人は構造化しない

対してわれわれ日本人は、そのように方法論を構造化することを好まないのではないか、と思います。構造化せず、エピソードや訓示を蓄積していく。それらは暗黙知となって組織に浸透している。個々のエピソードや訓示に通底する原則や価値観、それは必ずあり、それは表出・言語化はしないものの理解共有されていきます。
西洋的な構造化された知識は明確でそれについて議論したりすることが容易で、ルールとして用いるのに適しているだろうと思われます。対して日本的な非構造化、非言語の知識は、ルールというよりも、文化とか、あるいはマナーのような制約を形成するだろうと思います。

おまけ。訓示をチェックリスト化するのは間違い

日本人にとっての知識を構成する訓示を列挙してチェックリストにしようとするのは馬鹿げています。網羅性なんてないし、チェックリストにすることで機械的に用いることそのものが、訓示から学ぶという本来の知識のありように反するものだからです。

*1:それらの知識や方法論の論者はそういう構造が好きなのか、彼らの受けた教育や、それらのバックボーンにある文化の特徴なのか。ただし、それは、構造化「かぶれ」の人が紹介することが多いから、なのかもしれません。