見られる用文化、日本的知識共有スタイル
「見られる用文化」
「見られる用文化」のはざまで?番外編ー女の子と友達になれるのは誰か|宇井彩野(百合人企画)
確かに、ありとあらゆるところに女性を見られる性として扱う文言や風習が蔓延していて、僕はそういう空気を知らずにここまで来られたことは事実であり、ずっとそれととも生きてきた人の気持ちを理解することはできないかもしれない。でも別にそれは絶望とか断絶ではない、と思いたい。絶望だけしてもなんにも誰のためにもならないだろうし。
日本(あるいは東アジア?)では、理論は構造化して示し理解するものではなく、どっぷり使って会得するもの
トヨタのPDCA+Fという本を読んだ。ほとんど構造化されておらず訓示がフラットに続く、腹に落ちるまで精進せよスタイル。悪いとは言わないけど西洋かぶれにはつらいところある。
— Yamamoto hiroyuki (@yama__moto) 2019年1月7日
その後羽生善治七段の「決断力」を読んだけれどもまったく同じである。まあ、トヨタのOBの方も羽生七段も学者ではないので構造化する動機などないのかもしれないけど。どうあれ、日本人の達人が語るとき、本当に実に、フラットに日めくりのエッセイのようにエピソードを語る。そしてそれを学ぼうとする心持ちと姿勢を日々続けるなかで、やがて腹落ちして、暗黙知が暗黙知のまま伝わる。これが日本(あるいは東アジア)の知識共有スタイルである。いいとかわるいとか今日的かどうかとかとは別に、そうなのだ。これを出発点として、それじゃあ、どうしようか、という話だと思っています。