もうひとつの心のバリア

「心のバリア」という言葉がある。これは「心のバリアフリー」というような使い方をされる言葉で、要するに差別意識のことだ。でもここで僕が取り上げたいのはそういうことでなく、他人のそばにいるときにその人の発言や非言語的なメッセージの影響を受けない力のこと。たとえば隣の席の同僚が激怒して怒鳴り散らしていても、なんだすごい剣幕だな、と思って見ていられるなら「心のバリアが効いてる」「心のバリアが強い」と言える。そういう概念。差別に関する用語と被っているのはまずいので別のよい言い方が見つかったら書き直したいが、今は便宜的にこのままいく。

心のバリアが弱いと他人の感情や発言や非言語的なメッセージの影響を強く受けてしまい、ストレスを感じたり本来やりたいことやありたい状態を維持できなくなってしまう。心のバリアを強く、できれば意図的にコントロールできれば、生きやすいのではないか。

(続く)

2019-12-03 追記 「心のバリア」を言い替える言葉を探している。

「寛容力」:「寛容力のコツ」という本があるらしい。「ささいなことで怒らない、ちょっとしたことで傷つかない」とあるので近いのかもしれない。

「鈍感力」:同じく「鈍感力」という本があるらしい。意味的にはささいなこと気にするなガハハみたいなことらしいので、近いんだろうけどなんかいやだ。

(続く)

アジャイルに目的はない

日経なんとかにアジり記事を書いてる人のツイートに触発されてか、次の記事が紹介されていました。

「アジャイル開発」で解決できることは何か〜アジャイルは「速い・安い」のファストフードではない | Social Change!

2012年の記事なのね。でもあまり状況は変わっていない。

で、上記記事を読んだのだけれど、昔から感じている違和感があるので、今日はそれを整理したいと思います。

私が知っていたのは「日々変化するビジネス環境の中で、ソフトウェアが予測困難な要件や変化する仕様に対応できていない」という課題があり、そこから産まれたニーズが「変化に対応していけるソフトウェア開発」というもので、それに応えることができるのが「アジャイル開発」だったと思っていました。

しかし最近の文脈では「短納期化と低コスト化する中で、ユーザーの要件を確実に、高品質に、より短期間で提供できていない」という課題に対して、「低コストで速く作れるソフトウェア開発」というニーズに応えるものが必要で、それを「アジャイル開発」と呼んでいるようです。

前段の課題意識はまっとうだと思うし、それにアジャイル開発で答えられると考えるのもごく自然だと思います。しかし、後半にはひっかかりますね。

SIerは、大規模ででもそれほどエッジではない業務システム開発のやり方しか知らなくて、だから要件定義、設計、実装、試験、導入、という流れに特化しちゃってます。集約労働型ウォーターフォールでしかできない。結果として、決めきれない要件をあいまいなまま全部詰め込むところからスタートし、頭数だけ揃えた開発メンバーは言われたことをやるだけかそれすらもあやしく、設計や実装についてフィードバックから洗練させていくこともないので、まあアーキテクチャに関してはそうそう外すことはないとしても、馬鹿みたいにコピペだらけで醜くて重複と無駄だらけのコードが量産され、そこまでに大変時間がかかり、そしてその検証は遅れたスケジュールを挽回する最後の機会だから短縮はされてるけどテスト内容を減らすことはできないのでデスマになります。SIerだってさすがにそれがリスクで問題だという認識はあるわけですが、なかなかいい対策を思いつかないところにアジャイルに出会ったわけです。

ところで、そもそもアジャイルには目的はありません。アジャイルの定義ともいえる アジャイルソフトウェア開発宣言 は価値観の表明文だし、 アジャイル宣言の背後にある原則 も原則のリストです。これらをなにに用いるかは実践者の自由で、何に用いたとしてもこれらの価値観と原則に従っていればアジャイルと呼んで構わないでしょう。

SIとアジャイルの幸せな出会いというものを想像すると、こんな感じだと思うのです:

要件定義をやりきれないと設計以降の工程に入れないという縛りが解ける。集約労働っていうか質が低い大量のかきあつめ人材に頼らず、少数の信頼できる限定したメンバーで継続的に動くソフトウェアを提供するかたちにできる、要求とその実現形態を探索できる、新しいミドルウェアやプラットフォームを用いる技術的リスクにも繰り返しテスト・デプロイできるなかで正しいやり方を発見し適用できる、

これらをSIerと顧客が受託開発で享受する。なにが悪いんです?

結果として、スケジュールが遅延して(=早くない)、終盤のデスマに火消しを投入する分大赤字になる(=安くない)が回避できるなら、それは早くて安いんじゃないですか。

そういえば、スクラムのソフトウェア開発以外への適用の話で、ワイナリーの業務運用に適用した事例がありましたね。ワイナリーの業務って日々変化するんですか。そんなのアジャイルじゃないですか?

まあ、倉貫さんの記事が書かれてから6年経っても、SIerも実際のところ、中途半端にアジャイルラクティスを適用しただけの中途半端なアジャイルしかやってないことが多い印象です。それは本当のアジャイルのよさを発揮できていないので、アジャイルと言っちゃうのはどうかと思う、という指摘はもっともだしいいことだと思いますけどね。

SIerにもアジャイルをやらせてあげてくださいよ。アジャイルといいながらもそうなってないじゃんってところが事例報告とかにあったらそこを具体的に指摘するのはいいと思いますが、SIにアジャイルはありえねえ!みたいに言うのはやめて、という話でした。

(眠くて死にそうだ)

僕らは気の利いたことを言わなくちゃと思っていつも余計なことを言ってしまう

そういうものなので、僕らの言うことは自分でいいように拾って聞いてください。全部真に受けなくてもいい。

こりゃあ混乱する(あるいは混乱してる体で簡単に流れる)輩が続出するのもしゃあないわ

ものすごいオタク好きのする女の子絵がTwitterで流れてきたのでしゃあないなオタクは、と思って見てたら女性絵師が描いた絵だったわ。まあこういう人もいるんだな。当然といえば当然か。他人の気持ちをおもんばかる能力に欠けてる男性オタクはこれ見てなんだ女性もこういうの描くし好きなんじゃんと思うよな。やれやれ。

高次の欲求の追求に失敗すると低次の欲求が損なわれる

マズローの五段階欲求の高次なもの、承認とか自己実現とかね、そういう欲求を追求して失敗した場合、組織からの承認とか安全が損なわれる。つまり高次の欲求の追求に失敗すると低次の欲求が損なわれる。社会が安定から衰退のフェーズにある今、ギャンブルしたがらない人が大いのは頷けるな。

できない理由にこだわり続けるのはいったんやめにしよう

ティール組織」の読書会に、ティールな会社を運営されているという方が参加してくださいました。

ティール組織が掲げる価値観に合わない人、行動規範に合わせられない人はどうするのでしょう、という僕の質問に対しその方は、その問いそのものがティールではないですね、と。ティールな組織は全体性を重視する。その組織に参加している人のすべてを受け入れ、そこでできることをしようとする。できない人をどうしようか、という発想が、できる人とできない人をわけようとしている、できないはよくないことなくなるべきこととして外部化していることを示している。それは全体性じゃない。受け入れ、一緒にできることをする。それが、いってみれば心理的安全性を担保し、そうすると考え方や行動規範のような普通なら話し合いにくい、説得になってしまったら意味がない話題を話あえるようになる。行動の変化も試行錯誤もなんなら失敗も受け入れられる環境だから、変化も生まれうる。

そんなことを話してくださいました。ありがとうございます。

こうした変化を生み出す全体性。そういえばはじめて改善活動やアジャイルを知り取り組み始めたとき、そのときは当然それを目指そうとしていたような気がします。いつのまにかそこから離れ、現状の価値観や思考様式、行動規範をベースに考えるようになっていました。それが現実を生きるということだと考えていたけれど、逃げていたかもしれませんね。

結果を焦ることはない。受け入れる。初心に帰ってみようと思います。

NHKはAIにかこつけた盗用をやめろ

www.nhk.or.jp

断固として抗議したい。

AIレンブラントもたいがいと思ったけど、今回はパフォーマーが外見と声、歌を模倣された事例だ。

権利関係はもう話がつけてあるというなら、そういう話をしてるんじゃない。パフォーマーアイデンティティに対する尊敬がないことを非難しているのだ。

こんなのサンプリングして素材に使うのと変わらない。そうするとき、サンプリングされた人名義になるか?ならない。名義とはアイデンティティだ。自分の作品でないものを自分の名義にされる。勝手に作られる。これは冒涜だ。尊敬があったらできないはずのことだ。なあ、他人の表現、尊厳は尊重するのが当たり前だろう?

権利関係はもう話がついているというなら、それは、上記の尊敬に相当するものは金で買えたぜ、と言ったのと同じことだ。ひばりだって買えるぜ。もっと安いのならいくつでも買うぜ。俺が金を払ったものをどうしようが俺の勝手だろう、ってか。

NHKも権利関係では(たとえば昔の映像の再公開に当たって、当時の出演者や関係者の許可を得ることが難しくて)苦労していると聞いていたが、単に手続きが面倒だっただけで、金で買えればなんでもなかったのか、と思わずにいられない。

(日記)

まあそういうことです。

なんだろうね。

劣等感とかあるのかもしれないね。僕ね。いや絶対あるね。なんらかの形で成功して勝ちたい。勝りたい。そういうのが根底にあるから、人の話を聞いてないとか伝わらないとかしちゃうんだね。自尊感情とか低いからぐらぐらしてるしね。どこか自分は被害者って意識もあるね。

ほんとすまないね。

落ち込むのもポーズだからやだなあ。

blog.tinect.jp

期待した答えが返ってこない例、話がかみ合わない例が秀逸で分かりみが深い。また、ヒューリスティックスという語/概念を知ることができたのでよかった。

しかし、この問題は、事実と意見を区別して話す訓練をすれば解決するという結論には違和感を感じる。単純すぎないか。

事実と意見を区別して考え話す、というとそれはジェネリックなスキルのように聞こえるが、誰と誰がどういう状況で話しているのかというコンテキストに強く依存した行為でもある。ベーシックスキルに加え、コンテキストやパターンの共有、利害の合致が必要だろう。

それらは日常的に育んでいかなければ得られないものではないだろうか。学校とか研修とかで得られるものとは思えないし、得たいという動機を持つ(持たせる)ことも簡単ではないと思う。