察しの構造?

さて、日本の文化の特徴について考えています。僕は「察し」が最重要キーワードだと思うのですが、どうでしょうか。ちょっと検索してみたら次の記事に行き当たりました。

甘え - これこそが日本的コミュニケーション

だが、おもしろいことに、英会話に不自由しなくなり、アメリカ人の友人ができてくる段階になって私自身の"甘え"の対応とアメリカ社会での"甘え"のない対応、このギャップに苦しめられるようになったのだ。

「察し」の文化と「自己主張」の文化

うーん、「甘え」が本質なのかどうかはよくわかりません。土井健朗「『甘え』の構造」は家にあったと思うので読み返しますかね。

僕の現時点での理解:
多くの日本人は、価値観、判断基準、コンテキストが共有されていて、次に行なうべきことが自ずと決まる、特に議論を必要としない状態を好む。言い換えると、察しが利く状態、察しの利く人が好ましい。そうでない人は非難される。察しに基づく行動が期待した結果を生まないとき、失望し傷つく。

これを、親子関係に似た特殊な感情「甘え」を日本人が持っているから、という解釈は、正直あまりぴんとこないです。逆で、察し志向がまずあり、それを親子関係やある程度以上親しい人間関係に持ち込んだものが甘えである、という解釈のほうが自然な気がします。まあどちらでもいいですけど。

思うに、近年、社会環境の変化に伴って、人間関係のコンフリクト、社会的ストレスが増えました。若年層はそのストレスを回避する方法として、コンテキスト共有が足りないんじゃないか、増やせばコンフリクトが解消できるのでは、と考えるようになったと思います(なぜかは分かりませんが)。いわゆる、空気読め、とかそういうやつです。と同時に、空気を読めない者を貶め非難し、場合によっては「イジメ」ることによって、この考えを強化するとともに、ストレスのはけ口にしたと思います。これはこれで別のストレスを生むわけで、SNS疲れとかLINE既読問題とか、そういうことに繋がったと。
また、日本人は最近改めてマナーについてうるさくなったように感じます。マナーを建設的に扱うようになった、のだったらまあいいのですが、そうでもなくて、マナーという名の下に、価値観や行動習慣が異なるようにみえる人を異端視し、非難したがる人が目立つようになった。まあ、目立つような気がするのはインターネットの普及と、僕がネットばっかり見てるからでしょうけど。自分がマナー違反でないことの確認を求めて質問サイトに投稿する、他人がマナー違反であることを告発するポストをtwitterに投稿する、といったような。そういった行動で、なんらかの心理的安定を得たがる人が少なくないなと思います。

私たちはなぜこれほどまでに、幻想でしかないと思われる「それを構築するための能動的な取り組みをせずとも、価値観や理解やコンテキストが揃った状態が存在し、自分がそこに含まれていること」を渇望するのでしょうか。そこはまだよく分かっていません。