わかってほしいと言われると苦しくなる人がいることをわかってほしい

僕はどうも「わかってほしい」が苦手で、何かができない人とか、事故や犯罪によってそれまで通りの暮らしができなくなった人とか、そういう人の存在や抱える苦しさを「わかってほしい」と主張する文言を見ると、苦しくなってしまうのです。なんとかしなくてはいけない、けれど、自分にはできない、申し訳なくて苦しい。自分の生活もあるのでできる範囲のことしかできない(したくない)のが申し訳なくて苦しい。と。

自分ができる範囲を超えてなにかするというのは現実的じゃないし、現実的なことをすれば十分だろうし、全責任が僕にあるわけでもないからできるときにできることをすればそれで十分だろう、言ってる人だって僕が即時解決することを求めたりしていない、ということは、懸命に気持ちを抑えて頭で考えればなんとか導けるのです。しかし心は重くなって苦しくなってしまう。マスメディアやインターネットを見てると「わかってほしい」は連発されていますので、けっこう高い頻度で僕は苦しくなっています。

僕にとっての「わかってほしい」は世間一般の「がんばれ」みたいなもんだといえば、簡潔に伝わるでしょうか。

さてここまで書いたことは正直な気持ちではあるのですが、世にあふれる「わかってほしい」と同列にこれも言わせてくれ、というつもりで書いたことではありません。「わかってほしい」は心の苦しさの吐露でしかなく、伝え先への要求を明示しないところが日本人的だな、と思います。こんなような形で暗喩的になにかを要求する、という手法を取ろうとは僕は思いません。要求ははっきりと明示した方がいい。作為的なのは好きじゃないです。

啓蒙はした方がいいと思うけれど、わかってほしいはあんまり好きじゃない。わからないとき、わからないことあるので、言いたいことあればいってほしい。言うと怒る人がいるとか、うまく言えない場合がある、というのは分かりますし、言わない自由もあります。

という、まあ自分の考えや気持ちの整理でした。また、わかってもらわなくてもいいですが、言いたいことを言わせてもらいました。僕からは以上です。