(日記)

他人の物言いに苛立ちを覚えるのは、自分の考えや状況やこだわりや努力や過去やとにかくなにか自分にとって大事なものを否定されたような気がするからだろう。そしてまた本来なら肯定されてしかるべき、そうならないのは他人や外部が悪いという思いがあるからだろう。そういう形で自我を持っていること、それはこれまでの生き方の中で取捨選択してきた結果であり、消去法ではあるが合理的だったのだ。でも世界は変化していく。常に今は新しく、常にまた問われる。生きていくことは残酷だなあ、そう思うと。このもやもやとそれでも付き合っていく。認知を少しずつ変えていこう。