世界にはいろんな人がいる、という事実に対して

週末の国道には空気の読めない車がいっぱい - シロクマの屑籠

筆者が言っていることはわかる。世界はさまざまな人で構成されている。休日のショッピングモール周辺も、連休の高速道も。ベテランも素人も器用な人も不器用な人も気の付く人も気の付かない人もうかつな人も乱暴な人も。この筆者の指摘によって、いろんな人がいるので運転の態度がまちまちなのも当然だと気付けた。これについては感謝したい。

で、僕にとっては全然どうでもいいことなんだけど、筆者は文章にチラチラと攻撃性を織り交ぜるのがお好きなようで、

そういうドライバーの車が、リアフロントに「お前をドラレコで観ているぞ、煽ってんじゃねえよ」などと表記していると、かえって煽りたい気持ちになる。

だとか、

ある程度は仕方がない。とはいえ、追い越し車線を遅いスピードでずーーーっと走り続けて、前も後ろも見ていないドライバーには困ってしまう。あのー、後ろがつかえているんですけど、バックミラーついてますかー?

だとか書いていて、あー。

結局世界にはいろんな人がいると言っておきながら、それをどうにかすることなんかできっこないのに、受け入れることはできないんだ。

反射的にカチンとくる気持ちを抑える押さえ込む必要はないと思う。ただ、そのまま怒りにこころを任せてしまい、そのような気持ちの状態で生活しブログを書くまでに至るというのは。まあ、僕もそういうところありますけれども、そういうのは徐々に上書きしていくというか手放していきたいですね。

せっかくのよい観察眼と表現力があるのに(今回読んだ記事には気づきが貰えたので感謝しています)、もったいない気がしました。

(閲覧注意)

「宇崎ちゃん」献血ポスター、なぜ議論がこじれるのか | ハーバー・ビジネス・オンライン

僕の感覚ではまともな文章でありまっとうな主張だと思うのだが、これだけていねいに説明してもそれへの反応はというとこのざまである(見苦しいので本当に見てみる気がある人だけリンクを辿ってください)。

[B! ジェンダー] 「宇崎ちゃん」献血ポスター、なぜ議論がこじれるのか | ハーバー・ビジネス・オンライン

どれだけ説明しても理解しないし感情的で激化する罵倒をやめない。彼らを議論できる相手とみなすことはできないし、必要もないだろう。彼らはガン無視して、まだ議論の余地のある人たちをイメージして自分の考えを述べたり自分と異なる意見を拾っていきたい。

非認知能力は重要だが呪いをかけるのはやめてほしい

toyokeizai.net

  • 非認知能力を継続的に育んできた人は比較的ストレスに強い。
  • 認知能力は必要であるが、それを上回る非認知能力がないと現代で成功することは難しい。
  • 非認知能力を育むには、親の理解と献身、地域や学校や友人とのよい関係、好きなことに仲間と継続的に没頭してきたという経験が有効である。

大変耳障りがよいがそれがゆえに気になる点が多い。

ストレスに強い弱いはまだ測れると思うけど、非認知能力はどうやって測るのか?非認知能力の育みは測れるのか?経験の量や質が図れるとして、非認知能力やストレス耐性との相関は?

母親神話に類する話を聞かされているような気がする。「ストレスに強い大人に育つかどうかは、親次第」などと聞き捨てならないことも書かれているしね。みなの幸せを祈っている体で呪いをかけている部分もあるよ。

非認知能力は大事で、子供や若者に限らずすべての人がそれを育むべきと思っているが、こういうよろしくない記事のせいでへんな色がつかないか心配だ。

なかなか伝わらないようだけど根気よく訴えていくしかない

自分から水着着たりポージングする女の子だっているじゃないか!に対しては、それはその女の子の主体的な選択ならいいの。本人以外がやらせたらだめなの。

非実在少女だからいいじゃないか!に対しては、女性とか少女という実在する属性を勝手に利用しているからだめなの。女性や少女以外のなにか、イヌとかネコとかにしておけばいいと思うんだけど。

芸術や表現だからいいだろ!に対しては、キャンペーンとか公の場で堂々と開陳しちゃうのがだめなの。どこかでこっそり楽しんでる分にはいいんだけど。

分かってほしいな。

(最近思っていること)

最近考えていることを世界に知ってもらわなくても別にいいのですが、頭から出さないと煮詰まってしまうので。

ドライブレコーダーは要らない

クルマを買い替えましたが、付けませんでした。必要なのかなあといろいろ調べたり考えたりしましたが、必要ないです。

他人や世界を信用ならないものとして生きる理由がないので。そんなことしなくても僕は自分らしく生きられるので必要ないです。それに煽られたことなんかないし(あっても忘れる)、ドライブレコーダーを付けても保険が安くなるわけじゃないし。

価値プラクティス原則を徹底したらどうか

ケント・ベックエクストリームプログラミングを価値とプラクティスと原則で記述してこれはとても重要。プラクティスやルールだけでは形骸化が避けられない。価値観だけでは実践が定まらない。価値とプラクティスを原則でつなぐというやりかたは極めて合理的だ。

問題は、組織や業務にアジャイル手法を取り入れようとしたときに、アジャイル的な価値やプラクティスや原則だけを考えることじゃないかと最近思っている。アジャイル手法については合理的に考えられるのだけど、対極にある組織や既存プロセスのレガシーな部分についてはその考え方はせず、相が違うものとして共存させてしまう、と、これはよくあるアンチパターンじゃないか。

それを防ぐためには、組織文化やルールや既存プロセスも、価値プラクティス原則の枠組みで記述してみるといいのでは、というアイデア。組織の価値の一部は社訓とかビジョンとかに書かれているだろう。そういう公式な言葉になっていないものも絶対にあると思うが、アウトオブザボックスでそれらも言葉にしよう。そしてルールや慣習もがんばって言葉にしてみよう。そしてそれらと価値観を結ぶ原則も、まずはアズイズで言葉にしてみる。簡単なことじゃないな。それなりの時間とやる気が必要だけど。でも、そうやって自分達の行動と原理を多角的に言語化して、それにアジリティを足して、どういう価値とプラクティスと原則になるのかを整理できれば、見える化も、数値化も、フィードバックと改善も、ぐっと容易になるのではないかな。

そういうことを、うまくアジャイル(や他の新しい考え方ややり方)を取り入れていっている組織はやっているんじゃないか(という想像、仮説)。でもあまり言語化されていないと思う。どうでしょうか。

レガシーコード考

レガシーコードの定義を、必要な変更に対する変更容易性が低いコード、だとする。ここでレガシーコードをそもそも書かないためにはどうしたらいいかを明らかにするためにはどうしたらいいか。

レガシーコードがなぜ生まれるのか、は押さえておいたほうがいいだろう。そのうえで、そうならないようにすればいい、ということになる。

レガシーコードがなぜ生まれるのか。「品質を無視するから」という主張には賛同しかねる。僕は品質を無視する組織やエンジニアを見たことがない。品質を担保する方法についての引き出しが少ないとか、昔の状況や古いプロセスに囚われすぎているとか、時間とトレードオフしてしまっているとか、そういう例は多いが。

なにがしかの取り組みはしているのだが、それが十分な効果を生んでいないことが問題であり、その根本原因にリーチすることが大事だ。ここではコンテキストも固定できていないし、具体的な事例には触れないけど、

アジャイルのエンジニアリングメソッドを適用していないことが根本原因である、という結論は、ない。絶対にない。もしあるとすれば、それらを適用させない、できなくさせているなにかである。

そこをきちんと言語化し共有した上でなら、エンジニアリングメソッドの詳細(とそれを十分に理解するために必要な原則)を説いてもいいと思います。