馬鹿の壁
引用元や引用者の趣旨とは離れるのだが、バカ連呼したり測り過ぎは無能さの表れという主張は測り過ぎと同じものを生むよ? /ミスが全くない仕事を目標にすると、ミスが報告されなくなる『測りすぎ』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる https://t.co/iTvLrdqAmk #Zenback
— Yamamoto hiroyuki (@yama__moto) 2019年9月25日
馬鹿という修飾語には意味が感じられない。誰しもなにがしかの視点立場から見れば馬鹿たりうると思うので。だから馬鹿という修飾には意味が感じられない。それよりも、なぜマネージャは馬鹿なのか(馬鹿になってしまうのか)についての考察を求めたい。
さらば名古屋グランパス
名古屋グランパスが風間監督を解任しました。
毎試合判で突いたように個人頼りの守備がほころびて負けること、金満と揶揄される補強の裏で期待される若手がどんどん移籍してしまうし地元出身の選手がぜんぜん来ないし活躍できず定着もしない状況、
それらへの不満が鬱積してもうグランパスは応援しない!と妻に愚痴っていたのが先週くらい。
テンポよく今回の監督交代となりました。
でも、なんかちがうと思っています。
そもそも、なんで監督は全権委任の要するに丸投げで、フィードバックや改善ということはなく、ぎりぎりまで引っ張って解任しかないのか。
僕はトヨタ生産方式かぶれなので、そんなやりかたはダンゴ生産だろあかんだろう!と思うわけです。異常があったらラインを止める。小さく素早く何度も改善する。それがトヨタ式じゃないの。人が大事なのが基本なんじゃないの。
名古屋グランパスはトヨタの子会社なんですよね。なんでトヨタ式でやらないのか。
よく知られている話ですけどトヨタのITシステムはウォーターフォールで作られています。受託先の現場プログラマーの苦労話はさんざん聞いてきました。これについてはトヨタにびびってアジャイル手法とかを提案できないSIerが腰抜けなんだろと思うところもありますが、
トヨタも所詮自動車のライン生産以外にトヨタ生産方式を適用することはできていないんだということだと思います。口だけです。ITとサッカークラブ、複数事例ありますんで、もう見限ってもいいかなと思っています。トヨタ生産方式。
そして結局なにもできてないグランパスも。能力がないことをなじる気はないけど、自らやるべきことをしないのは、だめだ。
グランパスは名古屋を名乗るのはやめてほしい。それは名古屋の搾取です!
風邪っぽいんです
アウトプットへの批判と人格への批判を混同しないための行動指針
Twitterなんかでよく盛り上がる話題に、アウトプットへの批判と人格への批判を混同することへの批判がある。その批判を全面的に受け入れるとして、具体的にそのような認知行動を取るための思考パターンについて考えてみたい。
言葉はすべて言葉通りに受け取る
裏読みは一切しない。常識と思われることでもしない。例えば京都の人の家に長居してお茶漬けを勧められたら、食べたければいただきます、食べたくなければ結構ですと答える。
含意を読み取らない、読み取ろうとしないことを相手が怒り出したらどうしようかな。その人がアウトプットへの批判と人格批判を混同するなと普段言っているような人なら、相手の反応と人格批判を混同しないでくださいよ、と答えるとこだけど、そうでない人には、、、これはちょっと保留。
相手の反応を期待しない
感謝とかね。なにかを教えてあげてありがとうを期待するとか、悩みや愚痴を話して同意や慰めや助けを期待するとか、そういうのは一切しない。期待を持って話をするのはいいけれど、それに応えてもらえなくても、それはしかたがない、たまたま相手が忙しいとか答えを持ち合わせていないとかあるからな、と受け流す。
相手が言わなかったことに意味を見出さない
たとえば「ありがとう」と言って「どういたしまして」とか「こちらこそありがとう」とか返ってこなくても、一切気にしない。単に聞こえなかったのだろうと考える。伝わっていないならもう一度伝えるかどうかは難しいな。面倒だなと思ったらしなくてもいいし、せっかくだからもう一度伝えてもいい。どちらにしても、その意味は考えない。
ちょっとへんにドライな感じがしなくもないけど、しっとりしたものを排除する実験なのだからしょうがない。実践できるかどうかわからないけど、意識してみようかなという気持ちでいます。
暑い日が続きます。。。
「コグニティブ・トレーニング」を知る
こんな記事があった。
非行少年たちはなぜ常識外の行動や思考をしてしまうのか。上記note記事の著者はこう主張する。
非行少年たちにその行動や思考の批判や説教をしても右から左に受け流すだけ。なぜなら、彼らには(説教する側と共有した)善悪価値観がなく、その価値観に基づいた他人の努力が理解できないから。それを無下にした際にどう思われるかを考えたこともない。
他者、多くの他者の考え、意図、社会通念となっている価値観を、多くの人は観察や経験から(教育からも少しは?)学ぶ。しかし、非行少年たちは十分学ぶ前に孤立や不登校などで、常識やパターンを覚える最大の機会である学校という場から離れてしまうことが多く、学ぶことなく成長してしまう。
ということについて、事例とそれを解消するための方法について書かれた本が、上記記事で紹介されている。
Amazonの書評を読むとあまり褒められていないようなので(タイトルの煽り姿勢も気になるし)、同じ著者の別の本を購入することにした。
教室の困っている発達障害をもつ子どもの理解と認知的アプローチ――非行少年の支援から学ぶ学校支援
- 作者: 宮口幸治
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2017/02/14
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この話題に僕が興味を持っているのは、以下のような理由による。
- 思ったより人は話が合わない。ある話題について話し合いを通じて意見交換したり理解を深めたりするのは簡単ではない。
- 語彙が共通しているとは限らない。同じ言葉を使っていても、意味付けが違うかもしれない。
- 対話の目的やアプローチについての共通理解が不十分なため、噛み合わないということもある。
- 対話に参加する動機が一様ではない。またその強さも同様。
- 上記のようなかみあわなさ対する認知や反応の違いが、また新たな噛み合わなさにつながる。
上記のような構造による対話の難しさは社会に遍在すると思っている。非行少年や発達障害の周辺にだけあるわけではない(あるいは、社会の構成員はみな非行少年、発達障害者であると考えるべきなのかもしれないが)。
この難しさになんとかして挑みたいのであるけれども、その方法論として、上記の本やそこで紹介されているコグニティブ・トレーニングの理論や考え方が役に立つかもしれない、という気がする。本が届いて読むのが楽しみだ。
グループディスカッション・クラッシャー
採用面接のときに行われるグループ・ディスカッションの参加者で、ディスカッションの進行や成果を阻害するような態度や発言や行動をする人のことをクラッシャーと呼ぶのだそうだ。
就活 グループディスカッション クラッシャー - Google 検索
たまたま知った。そんな言い方するんだ。就活生にしてみれば死活問題だから?対策もわりと明確になっていたりして、なるほどなあと感心する。
就職した後の職場における職務や会議のクラッシャー対策がそれほど共有知化されていない。真剣さが違うのだろう。というのはさておき、当然流用効くし、今時の新入社員さんたちには常識だとしたら、僕ら旧世代(クラッシャー性をなにがしか持っているだろう)は排除されちゃうかもね。
めんどくさい
なんか僕はずいぶんとプライドの高い人のようです。自分がなにかをできないということを認めるのがいやみたいなんですよね。指摘を人格否定じゃないものとして受け入れることができない。だって他人から指摘を受けるということは、それを受け入れてなんらかの改善なり成長ができなきゃ、やっぱり凡庸もっと言えばできない子ってことになるじゃないですか、だから他人からの(人格否定じゃなくて行為や生産物に対する)指摘だって、結局自分が劣った人間であることと背中合わせなんだから、そんなおおらかに受け入れられないですよ、と思っているみたいなんです。めんどくさいですね。
でも、誰しもなにがしかめんどくさいですよね。
苦手
苦手なタイプの人というのはいるものです。
どうもやりにくい。合わないというか、こちらの思うようにいかない。
自分の中にどうしても生ずる反感をなんとかしないといけません。相手に悪意があるからだとか、あの人は劣っている、あるいは何らかの欠陥があるんだとかというような、自分の感情を正当化する思考をするとか。あるいはアンガーマネジメントで建設的に解消しようとするとか。
まあ、人間関係に何ががしかのコストがかかるのは仕方がない。誰か他の人を、僕もいらつかせているかもしれません。お互い様ということで手打ちでしょうか。
嫌いな人とは嫌いだから関係を断つ、ということがいつもできるわけじゃないですからね。
迷わず話せよ、話せば分かるさ
一人暮らしで少し心配な義父の様子を見に、月に一度ほど、妻と二人で片道6時間くらいのドライブをします。道すがら二人でずっと話していて、だいたいは僕が最近考えていることとか悩みごととか仕事上の愚痴とかを聞いてもらう感じなのです。
最近車を買い換えようかという話になっていていくつかディーラーに見に行って試乗もさせてもらっていて、先日のドライブの際にはどの車がいいか、ということをずっと話していました。
たぶん買ったら長く乗るので、これからの10年くらい、夫婦ふたりでどんな風に過ごしていくか、そのなかで車がどんな役割を果たしてくれる(ほしい)のか、というようなことも話しました。
まあ、目的とか、価値とか、組織運営の理論とかではすぐ出てくるワードですが、普通の暮らしにそういうのを持ち出すのは、ロジカルでいいとも言えますし、もう少しあそびがある・欲しいものだからその路線でビジネスライクに話すのもちょっと違うかもとも言えますね。
例えば映画ならだいたい2時間くらいなので、どのシーン、演出、セリフにも無駄はなくてすべて意味が明確にあるんでしょう。しかし普通の人の普通の生活はもっともっと長い時間のなかで、たくさんのこと生活のすべてとともにあるので、ビジネス理論のようなモデル化は似合わない気がするし、そもそも興ざめという気もします。
でも話をするのはとてもいいこと。話せば話すほどいろんなことが見えてくるし、次が見えてくる気がします。
妻との会話を与えてくれている義父にも感謝したいな。
次はお盆にまたドライブします。