怒っている人や強面な人はほんとはただのビビリ

僕の知っている人の勤めている会社は、やるべきことをきちんとやろう、といつも言っているそうです。

なにか結果が伴わないことがあると、やるべきことをちゃんとやらなかったから、と反省点を見つけ、チェックリストに追加する、ということを繰り返した結果、膨大なチェックリストができあがってしまい、本来の仕事よりもチェックリストを書いている時間のほうが長くなってしまいました。監査重要ということでやっていて監査者の仕事はチェックリストがちゃんとチェックされているか確認することだといいます。

なんでこんなことになっているのか、絶望と怒りが抑えられず、知人は考えました。その答えは分からないし、分かったところで正すことはできないだろうと思っているのですが、でも、自分が気持ちを整理するために、生き抜いていくためには考えずにはいられないのです。少なくともただ受け入れることはできないと。

そして知人は考えました。

結局のところ誰も度胸がないのです。不確実なこと、未経験のこと、確証が持てないこと、理想と現実が乖離しているとき、自分の強みと思っていることに周囲がひれ伏してくれないとき、どう調整して合意するかしかないのだけどそれに対する不安があるとき、会社の人たちは、腰が引けてしまい、グダグダに流されるままになってしまうのです。そして自分の安全地帯に帰ってきて、正しくないヤツがいると言ったり、あるいは名前を言ってはいけないあの人だからしょうがないと自分を慰めたり、チェックリストを作ったりしているのです。結果として現実にただ迎合し、できることだけをし、事態が悪化していっていてもほとんどなにも抗うことはできず、矢面に立っている人は過大な負荷につぶれてしまい、貧乏くじという教訓だけが残り、いよいよ度胸がなくなっていくのです。なにもしない、あるいはできることしかしない。適当なことを言うだけ。そういう経験を重ねて、それを強化していく。

社会が厳しいのではない。あるいは社会が厳しいとは、そんなとほほなことでしかないのです。

知人はそう思い、一時強い怒りを覚えました。しかし怒っていてもなにも変わらない。弱い子供のやることなので責めても改まることはないと思い至りました。

だからどうできるわけでもないけれども、具体的に役に立ってくれないすべての関係者はただの無能な弱虫だと、そして自分だって例外ではないということを出発点にして、できる限りのことをしていこう、と思うようになった、ということです。