努力が才能かどうかは些末であり、大事なことは納得できるストーリー

努力できることは、才能なのだろうか。 | Books&Apps

「継続・努力ができる人は社会的成功の可能性が高い」 →「人生にとって重要なのは才能ではなく、継続・努力である」 →「努力できることも才能なのではないか」 →「努力できるかどうかは状況・環境による」

興味深く読ませていただいた。自分の考えを記しておきたい。

「継続・努力ができる人は社会的成功の可能性が高い」から「人生にとって重要なのは才能ではなく、継続・努力である」は導けない。「才能と努力はどのような関係にあるだろうか」「才能と努力以外に重要な要素はないか」とならないのは、才能と努力のふたつだけが支配的な要素であるとする、あるいはそれらを二項対立とする、思い込みがあるからだろう。

そのようなバイアスがかかる背景には、そのようなストーリーをもって納得を得たいという人の心根がある。そしてそれはつまり、才能と努力のいずれよりも、納得できるストーリーこそが人生にとって重要だということを示している。

「状況、環境」という言葉は、いまひとつ正確に言い表せていない気がする。ひとりひとりが、その状況、環境をどのように受け止め、意味付けしているか、だ。

そして、その受け止め方、意味付けの仕方は、個人の資質(生来の性格と人生経験によって構築されたもの)によるが、本人あるいは他者がそれに働きかけることがまったく不可能なわけではない。

言葉で、態度で、雰囲気で、ルールで、手本で、判例で、文書で、公式に、非公式に、集団的に、個別に、さまざまな方法がある。どれがどの程度効果するかは、その人次第、その時次第である。基本はフィードバックベースで取り組むことだろう。また、人次第その時次第とはいっても、傾向やパターンはあるだろう。それらを上手く使いこなすことができれば、組織運営や、人材活用が容易になるだろう。絶対はない。しかし何もできないわけでもない。ともかく、本質は納得できるストーリであり、そこを見ない議論は些末である。