オプティミストはなぜ成功するか
- 作者: マーティンセリグマン,山村宜子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1991/08
- メディア: 単行本
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- 人生は挫折を与える
- ある種の人たちは、挫折するとすぐに絶望に打ちひしがれてやる気をなくす
- 一方立ち直りの早い人もいる
- このように異なるタイプの人がいるのはなぜか、その一般的な原理
- 広い意味でのうつの根底にあるのは悲観主義である
- 悲観主義は変えることができる
- その対局にある楽観主義は学んで身につけることができる
- 簡単には身につかないが、いったん身につけてしまえば一生忘れることはない
- その対局にある楽観主義は学んで身につけることができる
- 悪い出来事をどう説明するか
- 悲観的な人
- 自分に責任がある
- この状況はずっと続く
- なにをやってもうまくいかかないだろう
- 不幸な出来事を普遍的に捉える
- 皆そうだ
- いつもそうだ
- 不幸な出来事を内的に捉える
- 自分のせいだ
- 自分はついてない
- 楽観的な人
- 状況のせいだ
- この状態はすぐに終わる
- 人生には他にいろいろ楽しいことがある
- 不幸な出来事を特定のものと捉える
- 彼・彼女はそうだ
- 今回はこうだ
- 不幸な出来事を外的に捉える
- 外的な原因のせいだ
- 自分のがこの不幸を招いているわけではない
- 悲観的な人
- 良い出来事をどう説明するか
- 悲観的な人
- 幸運な出来事を特定的なものと捉える
- 今回たまたまうまくいった
- 幸運な出来事を外的なものと捉える
- 自分のちからによるものではない
- 幸運な出来事を特定的なものと捉える
- 楽観的な人
- 幸運な出来事を普遍的に捉える
- だいたいいつもうまくいく
- 幸運な出来事を内的なものと捉える
- 自分のちからによるものだ
- 幸運な出来事を普遍的に捉える
- 悲観的な人
- 楽観主義を積極的に用いるべき状況
- なにかを達成しようとしている
- 自分の気持ちを高めようとしている
- 困難な状況が長引きそう
- 指導的役割や他者を啓蒙する役割を務めるとき
- 楽観主義的思考や行動を避けるべき状況
- リスクの大きな計画や見通しが不確かな時
- 他の人たちの困り毎に同情的であることを示したい時(でかつ、まだ信頼を十分に得られていないとき)
- 認知の改善
- 困った状況
- 思い込み
- 結果
- 対処
- 気をそらす、距離を置く
- 反論する
- 証拠はあるか
- 別の考え方
- その考えの有効性
- 元気づける
文化の盗用と差別と表現
アイヌの文様を軽々しく盗用するのはけしからんという意見をtwitterで見ました。
たぶんこのまとめにある。
https://togetter.com/li/1241147
和人はアイヌからさんざん収奪してきた過去があるので安易な借用は盗用でありまかりならぬ、という意見と理解しました。
いろいろ思ったことがあります。
- 差別被差別の関係がなかったら安易に借用してもいいか
- 差別関係の有無はどう判断したらいいか
- だれでもなにかを批判する権利はある
- 批判されたときのあるべき態度
先の意見をそのまま杓子定規に受け入れると、ほぼ生きていたりなにかを発することは不可能になってしまうと思います。まさかそんなことを強いられるいわれはないので、ま、ほどほどに、他者の意見(批判含む)を参考にしつつ、自己判断で生きるだけかというのが今の気持ちです。
それにしても、自説の説得力を上げるために表現のとがりや内容の緊迫感が上がる傾向のあるのは面倒くさいですね。人と対話するときはもうちょっと柔和な方がいいと思います。でないと、批判や議論というものが棄損される。
もちろん、好き好きですが。単なる個人の意見です。
僕が好きじゃないものは差別である
二次元美少女絵というのがすきじゃなくて、あまり僕の視界に入れないでほしいと思っていますが、なかなか防ぎきれず、しばしばイライラしてしまいます。
僕は過度に露出された二次元美少女絵は女性に対する侮辱であり、それを押し付けられることは自分に対する侮辱だと感じているのですが、はたしてこの思考・感情は、前述のアイヌ文様問答となにがちがうでしょうか。
意見の対立は死か
意見が異なるなんてことは普通にあることですが、その都度殺し合っていたら人類は死滅してしまう。だから、意見の相違自体は普通のことでなにも恐れ入ることもない。はず。
「家事の外注はしない」と言ったら大炎上 なぜ女性同士でもわかりあえないの?
見解の相違があるだけに見えるけどタイトルには「大炎上」「わかりあえないの?」って、自己同調圧力が強すぎだと思います。内容以前に。
人間相手にするということについて考えさせられた話
たまたま(たぶん、はてなブックマークから)、「性犯罪者数百人と面会して見えた「性暴力問題の本質」(藤岡 淳子) | 現代ビジネス | 講談社」という記事を読んだ。強く印象に残った。勉強会の会場に名古屋市の男女共同参画推進の施設を利用しており、その施設にジェンダー関連の図書室がある。勉強会の会場予約に訪れた際にその図書室に立ち寄り、その記事の著者の本を探したらあったので借りて読んでみた。
- 作者: 藤岡淳子
- 出版社/メーカー: 誠信書房
- 発売日: 2006/07/01
- メディア: 単行本
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以下はまえがきからの引用。
ほぼ四半世紀前、筆者が少年鑑別所で非行少年のアセスメント(査定)を始めたばかりのころ、男性上司や先輩たちから教えられた性非行に関する理解は、以下のようであった。「男性は性的衝動を抑えられない。性非行少年は衝動の統制力が弱く、むらむらっときて(被害者に)飛びつく。彼は、これから男になるためにさまざまな性を試みているのだから、その試みを乗り越えられるよう援助してやる必要がある」。
性暴力の理解と治療教育 - 株式会社 誠信書房
(中略)
それからおよそ十年後、青年を収容する刑務所(おおむね二十〜二十六歳)に勤務し、性犯罪者たちのグループワークを担当せざるを得なくなり、どうも教えられてきたことと、「目前に見る性犯罪者たち」がぴったり重ならない。(中略)性犯罪とその治療に関する英語の文献を読むようになった。(中略)おおむね以下のようなことが書いてあった。「性犯罪は、性的欲求や衝動にのみよるものではない。それは支配や優越、強さの主張といったさまざまな欲求から行われる。性犯罪は、けっして衝動的に行われるものではなく、自己の欲求を充足させるため、合目的的に、いわば計画的に行われる。少年の性犯罪はけっして一過的な性の試みとして行われるものではなく、性犯罪行動の変化にターゲットを絞った特別な治療をしないかぎり、何度も繰り返される非常に習癖性の高い行動である。しかし、性犯罪者の査定と治療には特別な困難が伴い、したがって特別な訓練が必要とされる」(Pery&Orchard,1992)。
これまでに読んできたジェンダー関連のWeb記事から、まあそうなんだろうなと思っていたことが、きっちりと論説されていた。
人間はそういうものだと改めて思った。正しく生きたいと思うこともあるが、どちらかというと、自己正当化のために正しさが欲しいのだろう。
そういうものどうしで社会や集団を形成して生きているので、うまく生きたいと思うのなら戦略や戦術があったほうがいいだろう。そういうことを漠然と感じていたところで、この本はとても勉強になった。
わかってほしいと言われると苦しくなる人がいることをわかってほしい
僕はどうも「わかってほしい」が苦手で、何かができない人とか、事故や犯罪によってそれまで通りの暮らしができなくなった人とか、そういう人の存在や抱える苦しさを「わかってほしい」と主張する文言を見ると、苦しくなってしまうのです。なんとかしなくてはいけない、けれど、自分にはできない、申し訳なくて苦しい。自分の生活もあるのでできる範囲のことしかできない(したくない)のが申し訳なくて苦しい。と。
自分ができる範囲を超えてなにかするというのは現実的じゃないし、現実的なことをすれば十分だろうし、全責任が僕にあるわけでもないからできるときにできることをすればそれで十分だろう、言ってる人だって僕が即時解決することを求めたりしていない、ということは、懸命に気持ちを抑えて頭で考えればなんとか導けるのです。しかし心は重くなって苦しくなってしまう。マスメディアやインターネットを見てると「わかってほしい」は連発されていますので、けっこう高い頻度で僕は苦しくなっています。
僕にとっての「わかってほしい」は世間一般の「がんばれ」みたいなもんだといえば、簡潔に伝わるでしょうか。
さてここまで書いたことは正直な気持ちではあるのですが、世にあふれる「わかってほしい」と同列にこれも言わせてくれ、というつもりで書いたことではありません。「わかってほしい」は心の苦しさの吐露でしかなく、伝え先への要求を明示しないところが日本人的だな、と思います。こんなような形で暗喩的になにかを要求する、という手法を取ろうとは僕は思いません。要求ははっきりと明示した方がいい。作為的なのは好きじゃないです。
啓蒙はした方がいいと思うけれど、わかってほしいはあんまり好きじゃない。わからないとき、わからないことあるので、言いたいことあればいってほしい。言うと怒る人がいるとか、うまく言えない場合がある、というのは分かりますし、言わない自由もあります。
という、まあ自分の考えや気持ちの整理でした。また、わかってもらわなくてもいいですが、言いたいことを言わせてもらいました。僕からは以上です。
コミュニケーションスタイルがアサーティブでないのは心に恐れがあるから
アサーティブネスの本はいろいろありますが、アン・ディクソンの「それでも話し始めよう アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション」と「大事なことを思いどおりに伝える会話術」をおすすめしたいです。
それでも話し始めよう アサーティブネスに学ぶ対等なコミュニケーション
- 作者: アン・ディクソン,アサーティブジャパン
- 出版社/メーカー: クレイン
- 発売日: 2006/01/30
- メディア: 単行本
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- 作者: アンディクソン,Anne Dickson,佐々木かをり,ユニカルインターナショナル
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2002/07
- メディア: 単行本
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これらの本のどこがいいかというと、アサーティブを単なる会話技法とはせず、率直なコミュニケーションを阻害する心の中にある恐れに言及し、その存在を少しずつてなずけていくことで、自尊心と豊かなコミュニケーションが得られる、そういう自己実現だとしているところです。
本当に強い人は人を恫喝したり作為的なことを言ったりしない。弱い人が吠え、出し抜こうとし、あるいは対話を避ける。責めているわけではありません。誰しもそうなのです。ただ、それに気づかず、あるいは気づかないふりをし続けていると、他人との対話を損なうというかたちで不利益を積み重ねてしまう。恐れを持ち続けてしまっているために、自分自身を毀損し続けている。その不合理さに、別れを告げましょう。自分を知り、認め、少しずつ素直でしなやかな自己認識とコミュニケーションスタイルを身につけましょう、ということです。
アサーティブな物言いを身につけて、アサーティブでない人に勝ちたい、アサーティブでない人たちをコントロールしたい、と思っているなら、それはアサーティブではないです。自由になりましょう。
在庫と心理的安全の関係。あるいは、バッチサイズが大きいとメンタルを蝕む
ウォーターフォール型プロジェクト管理の進め方は、バッチサイズ(まとめて処理する量)を最大化して、大量生産的な工程内に閉じた最適化によってアドバンスを生み出そうというものです。トレードオフとして、リードタイム(着手から完了までの期間)が長くなり、エンドツーエンドの評価が最終段階までできないため、問題の発覚が遅れる、気づいたときにはもう時間的余裕がない、というリスクがあります。このリスクは工程毎のチェックゲートで「やるべきことをやっているか」を検証することで低減するのが基本ですが、この考え方には誤謬があります。人間系には不確実性がつきものですし、一品もののプロジェクトには平均的な想定とのズレが必ずあります。プロジェクトの経験がいくらあっても、それらが収束するほど大きな母数ではないので、「やるべきことをやっているかを検証する」とは、さして効果が期待できないが形式的なことを精神論で行う、ということにしかなりません。それでリスクが十分に減少するわけではありません。
そのような乱暴な賭けプロジェクトにコミットすることは、普通の感受性の持ち主であればとても辛いことです。メンタルの不調に陥る人が少なくないのも当然の帰結だと思います。
みなさんの組織、チームのマネジメント力、コミュニケーション力、相互サポート力は、その乱暴さに打ち勝てるほど強いですか?
僕の考えとしては、ウォーターフォールはブラックなのでやめたほうがいい。ということです。