表現者はアサーティブであればいいのではないか

興味深かったので、一緒に考えてみます。

【不快かどうかじゃなく性差別である事が問題なんだよ】 何を持って性差別表現とするかは女性の中でも見解が異なるので結局は不快に感じる人の数が問題になるのではと。

何をもって差別表現とするかは、難しいと思います。不快に感じる人が多いものは筋が悪いんだろうとは僕も思いますが、不快に感じる人が多いのか少ないのかの評価がそもそも難しい上にあいまいなので、それで決められる(決めるべき)とも思えません。個人的には、表現者各人が判断し、批判されたら都度考えるのかなと思います。考えるというのは、その批判の内容を勘案して、なるほどと思えば自分の判断を改善するし、そう思わなければ拒否することになるでしょう。

自分で気づいていない、あるいは無意識に認めたくないと思っている差別意識はどうなるんだろう、ということについては、これは根源的な問いで今の自分に明確な答えはないです。ある意味どうしようもない。研鑽は続けますし、気づき改心できるようなうまい批判をしてもらえたらありがたいな、というのが精一杯です。

性に訴えかける意図がある事自体がダメというのは理解していまが、完全に性的でない女性の絵は不可能で、それは男性的と同義です。

これは(文脈が読み取れないので誤読かもしれませんが言葉の通りに受け取って)僕はそうは思いません。性に訴えかける意図があるのは別にいいも悪くもなくて単にそういう表現だということで、ダメなのは他人の性に便乗するとか勝手な意図を上乗せするとか非人間的に扱うのがよくなくて、にもかかわらずそれを公の場に出すあるいは出すことを強行するのがさらに悪い、と僕は思います。*1 全く性的でない女性の絵は僕には描けませんが、描ける人は論理的にはいるかもしれない、けど、いたとしてもだから僕も描けなければいけない(それを描かなければならない)とは思わない。個人の創作とはそういうもの。だから公の場への過度の露出には慎重であるべきと思っています。

どんな些細な事でもいじめや人種差別はダメだというのは人類の共通認識ですが、表現に関してはどんな些細なものでもアウトとしてしまう事には強い危機感を感じます。今回のポスター絵を全然OK、好きだと感じる女性もいるから議論になってるわけで、女性の中だけでも見解が分かれる案件だと思います。

ちょっとまってください。「表現に関してはどんな些細なものでもアウトとしてしま」ってます?誰が?どのように?ホントですか?

今行われてることは、公開された表現に対する批判と論争であって、「アウトとしてしま」う=神が下すような審判なんてされてなくないですか。たとえば画廊や出版社にこれはダメだねと言われて窮するということはあるのかもしれませんが、それならその特定の相手との関係なので、それなりの対処の仕方があると思います。言うことを聞くなり交渉するなり別のクライアントを探すなり。SNSとかで不特定多数(あるいは少数)の人に言われたとかなら、これまた従うなり反論するなり無視するなりすればよくないでしょうか。

アウトになんてされてないと思うんですけど、アウトにされたように感じるんですね?そういう発言よくSNSとかで見ますが、どういう心理的背景なんでしょうね。そちらを掘ったほうがよくないですか。

「今回のポスター絵を全然OK、好きだと感じる女性もいるから議論になってるわけで、女性の中だけでも見解が分かれる案件だと思います。」そりゃそうですよ。感じ手はたくさんたくさんいて、考え方も星の数ほどあると思います。絶対に間違いのない考えと行動をしようとしなくていいんじゃないですか。その時々の自分の感性と考えを信じてアサーティブに振る舞えばいいと思います。

*1:もっとも、「性的」とはどいういうことか、という議論も必要かもしれませんね。性、特にある種の男性の性はそもそもすでに征服欲や対象を人間扱いしない歪んだ欲求だという指摘もあり、そういう性のことをいっているなら、それを訴えたらいかんだろうと思います。