(雑感、2021年3月28日)
- 胃ろうや気管切開がなにをもたらすのかちゃんと説明しない
- たやすく向精神薬を処方してどのように服薬しているのか確認しない
- 高齢者に対して認知症の検査をしない、できないと言う
- 問診票の「頭痛がする」にマルを付けたらコロナウィルス感染の恐れがあるので診察できないという
- 高齢者が自分の指示を理解できないことに苛立って突き放した雑な説明をする
- 予約がいっぱいだからとかの理由で何の助言もヒントも与えずクライアントを追い返す
- 患者が二週間分の薬を3日で全部飲んじゃったり、あるいは一度飲んだだけで合わないと勝手に判断して飲まなかったりするのを、馬鹿にしたり、あるいは反抗と捉えて怒って懲罰的な態度をとったり怒りだしたり、あるいは無視する
すべて肉親に対する医療診察で体験したことなんだけど、よくメーカーの論理とか言うけど医者の論理も大概だ。
正直言ってまともな医者や病院の方が少ない世の中だ。コロナで崩壊したんじゃない。崩壊してたのがコロナで明らかになっただけだと思う。
善意や思いやりが世の中にないとは言わないが、上記のように期待はできなくて、一番困ってる時に自己責任と突き放されるということになると、少なくない人は最終的に他者や世界や人生を呪いながら死ぬことになる。ひどいことだよ。本当に……
そして僕も他者を敵と考えるようになりつつある。終わったな。最低だ。
(近況、2021年3月26日)
なかなかにしんどい今日この頃です。
年末くらいから身内が体調を崩して、なにより精神的に参ってしまい、いろいろと大変な状況になっている。あまり詳しく書きたくもないけれど……
- 心の病気は怪我と同じなので、できないことを責めてもしょうがない
- とはいえ近くにいる人の心境というものはまたそれぞれあるので、これまたこうあるべきと思ってもしかたがない
- 結局のところ、できないことよりできることを考えたほうがいい
- 自分だっていつかは死ぬわけだし、その手前ではいろいろなことができなくなる
- まあできなくなってからか、そのちょっと前になったら考えればいいことではあるのだが
- みなそれぞれに立場や考えや主義主張やそのときの状況などあろうけれど、最後の砦としてすがった相手に雑な対応をされるとさすがに応える、刺し違えてやると血走った目になってしまう
他にもいろいろ思うことはあり、
- 名古屋グランパスは本当に強くなった。J2に落ちた頃とか今は昔である
- 少なくとも川崎フロンターレと名古屋グランパスは2021年春時点のJリーグにおけるサッカーの再定義に成功している。両クラブはしかし違う志向でそれを行っており、直接対決が楽しみすぎる
- 両チームは経験学習モデルを他クラブよりもうまく会得していると思う。イチゼロということはなくて程度の問題なのだが、だがそのちがいがもたらすものの違いは大きい
- 経験学習モデルは極めて普遍的でなに当たり前のことをと言えちゃいそうですらある
- 経験学習モデル以外に、高いパフォーマンスと持続性を獲得する方法はないとは思わない。具体的にはわからないけど、それが唯一の方法ということはないだろう
ブライン液に漬けて焼いた肉は間違いがない。すごいなこれ
(雑感、2021年2月24日)
僕らは場の雰囲気や他者との関係にものすごく気にするところがあると同時にそれらを扱うのがひどく下手。結果とフィードバックで考えたり行動しているわけでなく、すべて認知と想像ベースだからかな。自分が拠り所にしているものにいまひとつ自信が持てないから、気にしている。気にすることで、根本的に良くない筋でアプローチしていることに目を向けることを避け続けている、とも言える。
それが駄目ってことはない。人間だもの、って感じ。ただ、悩みは尽きず、誤解や齟齬や誤解や失望や不満がとめどなく溢れてくる。
否定しないようにしよう、受け入れよう。そう思ってきた。ある程度はうまくいっている。でもきりがない、のも事実。
一般化して嘆いても仕方ないのだが……。
誰かを責めたくない。責めても解決にならない(他責志向/思考は心に闇を生む)から。でも、すべてを受け入れようとしても、それはそれで解決にならないのか。
(雑感、2021年2月15日)
社会とか職場で、好きじゃない人とか集団がいる。
その人(その集団の人)がなにかをしくじったとき、その人のことがもともと好きじゃないので、ほらみろやっぱりあいつはその程度(の能力とか意識の高さとか)じゃないか、と悪口を言ってしまう。それを材料に批判(その立場、その勢力にふさわしくない)をしてしまう。
というようなしぐさは、全くダメってことはないとしても、品がないとも思う。
- その人・組織そのものに対する批判・非難のために、今起きた事象を利用するかのような態度
- そのときの会話の焦点は、その人・組織そのものの長期的な評価なのか、今おきた事象なのか
努力が才能かどうかは些末であり、大事なことは納得できるストーリー
努力できることは、才能なのだろうか。 | Books&Apps
「継続・努力ができる人は社会的成功の可能性が高い」 →「人生にとって重要なのは才能ではなく、継続・努力である」 →「努力できることも才能なのではないか」 →「努力できるかどうかは状況・環境による」
興味深く読ませていただいた。自分の考えを記しておきたい。
「継続・努力ができる人は社会的成功の可能性が高い」から「人生にとって重要なのは才能ではなく、継続・努力である」は導けない。「才能と努力はどのような関係にあるだろうか」「才能と努力以外に重要な要素はないか」とならないのは、才能と努力のふたつだけが支配的な要素であるとする、あるいはそれらを二項対立とする、思い込みがあるからだろう。
そのようなバイアスがかかる背景には、そのようなストーリーをもって納得を得たいという人の心根がある。そしてそれはつまり、才能と努力のいずれよりも、納得できるストーリーこそが人生にとって重要だということを示している。
「状況、環境」という言葉は、いまひとつ正確に言い表せていない気がする。ひとりひとりが、その状況、環境をどのように受け止め、意味付けしているか、だ。
そして、その受け止め方、意味付けの仕方は、個人の資質(生来の性格と人生経験によって構築されたもの)によるが、本人あるいは他者がそれに働きかけることがまったく不可能なわけではない。
言葉で、態度で、雰囲気で、ルールで、手本で、判例で、文書で、公式に、非公式に、集団的に、個別に、さまざまな方法がある。どれがどの程度効果するかは、その人次第、その時次第である。基本はフィードバックベースで取り組むことだろう。また、人次第その時次第とはいっても、傾向やパターンはあるだろう。それらを上手く使いこなすことができれば、組織運営や、人材活用が容易になるだろう。絶対はない。しかし何もできないわけでもない。ともかく、本質は納得できるストーリであり、そこを見ない議論は些末である。
(雑感、2021年1月11日)
見よう見まね
C言語で自作されたロギング処理が遅いようなので、改善することにしたのですが、これに結構苦労しました。
プログラミングイデオムをその意図や前提条件、効果をあまり理解せず、なんとなく見よう見まねで用いている(そして間違っている)箇所が非常に多かったのです。
(僕がいる世界の多くの)プログラマーは、見よう見まねでプログラミングを身に着け、本人の意識と恵まれた環境と幸運があれば、いろいろ学んで理解を深めよいプログラミングができるようになります。逆に意識や環境や幸運がなければなんとなくそれっぽいが間違っているプログラミングしかできないでしょう。
そしてさらに、それほどでもないプログラマーが書いたプログラムを、動いているからいいだろうとプロダクションに入れてしまう、そして動いているのだから流用できるだろう、と使いまわしてしまう。これもコードの管理がなんとなくそれっぽく(見よう見まねで)行われているのだと言えるかと思います。
そんな、あれもこれも「見よう見まね、それっぽい、雑な」世界なのです。
プログラムをちょっとだけ変えるために、とても手間を取られ若干疲れたので愚痴っぽくいいましたが、誰のことも責める気はありません。よいプログラマーとそうでないプログラマーは二値ではなく、グラデーションですし。よい組織とそうでない組織も。
でも、なんだかなあ、っていう。
バベルの塔
2020-2021の新型コロナ禍が社会に突きつけたものはとても大きいです。日本の自粛要請と空気/圧力モデルは2020年前半には機能しましたが、2020年末〜2021年初頭にはすでに限界を迎えています。
国全体の問題には関係者があまりに多く(全国民ですからね)、議論ができない人、要請に従わない人もいます。平時ならしょうがないとか今後の課題だねで済むことも、こんな緊急事態ではそれで済ますわけにはいかない、けれどもどうしようもない、という感じです。
どのような主張もあくまで一部の人にしか届かず、一部の人だけで進めればいいわけではない問題を解決できず、いらだちが分断を再生産している。そんな状況という認識です。
感染拡大も残念なことですが、全員を巻き込んだ議論やコミュニケーションや合意の取れなさがなんとも残念です。僕らは無力だ。
(追記 2021/1/12 11:30頃)
NHKニュースによると、緊急事態宣言で政府が講じる措置とは国民(や事業者等)への要請。緊急事態宣言を受けて都道府県が行う措置もやはり「要請」です。
要請。従わないことも可能そう。というか、憲法や法律で定められた義務やルールであっても、従わなければ罰を受けたり拘束されたりするかもしれないけど、従わないことは可能。要請には従わないときはあるし、従わない人はいます。
100年に一度レベルの強烈な感染症の対策なんだから、従わない人もいるよね、では済まされないよ!ってのはそうなんでしょうけれども、だから全員が等しくそう思い要請に従うかというとそれは別の話です。
ただ自粛をお願いし続ける、お願いをより強くするだけなので、要請の効率は右下がりで、リーダーのいらだちと、国民の疲労と、なにより問題といえる分断は深まっています。
もう疲れた(コロナ関連)
新型コロナの拡大について、「気の緩み」というワードで説明する人たちがいる。為政者とか医療専門家とか。ライターとか。
なんといったらいいのだろう。絶望的だ。
自粛、三密、マスク手洗いうがいとこれだけ言ってきて、それでもまだ(というか最近はまた増えて)一日3800人とかが新規に感染することを憂い、注意してくれているのは分かる。
しかし、伝わっていないんだ。
君らの軽い言葉にはなんの説得力もない。
君らが嘆くべきは、感染拡大以前に、君ら自身の説得力のなさだ。
一億人に呼びかけるということを君らはなめている。
今年に入って「リーダー」さんたちがやってきたことは、広く国民に呼びかける体で、話を聞いてくれる素直な層に自制を訴えることだった。まだ話題が新鮮であり、いろいろなことが分かっていない中、話を素直に受け止める層は多かったし、受け止める態度も素直だった。結果、自粛すべきという空気がかなり高い密度で生成され、その層はもちろん、話を聞かない層にも圧力が届いた。他府県ナンバーの車にリンチするような勇み足もあったがまあ上手くいった。
だが、そんなやり方がずっと効果し続けるはずもない。言葉は生き物であり、古くなる。多すぎたり長すぎたりすれば飽きられる。重さは失われる。響かなくなる。割と素直に話を聞く層も疲れ果てた。耳にタコができた。一年近くこんな生活を続けてきた。これ以上どうしろと?自粛空気は薄まる。話を聞かない層にかかる圧力は弱まった。
その結果が現状だ。
これを「緩み」なんて表現する無神経さが許せない。
素直な人達を使って話を聞かない層に圧力をかけさせたんだぞ。国民に対立をそそのかしたんだぞ。そんな小ズルいやり方がいつまでもうまくいったりしないんだよ。
言ってるだろうなんでできないんだ!ってキレる子供大人か。結果責任じゃなくて、言うっていう手元の責任しか感じてないだろ。
いや、別にいいんよ。これは一億人が参加しているゲーム。だれかの思い通りになったりしない。なるようにしかならない。それでもなにか思うところあるなら、できることをやるしかない。誰も神ではないから。一億分の一でしかないんだから。君らがアジテーターとしてど素人レベルなのも、それ自体は別に悪くはない。
だから僕らを「緩んでる」と上から評価するのも自由だ。だがその結果も受け入れてくれ、それだけだ。
政治的や、科学的に正しくても、伝わらないってことは普通にあるんだよ。そんなのいろはだろ?
僕だってこんな面白くもない話を好んでしたいわけじゃない。
でも、「お前が悪い改めろ」と言い続けている人達がいる。一億人のプレーヤーの中ではごく少数なのだけれど、でもそれが政治や科学のリーダーさん達で、でもコミュニケーションについてはど素人で、しかもくどい。確信犯的でもある。
それを真面目に聞くことに疲れたんだ。
対立してる場合じゃないんだよ。ほんと。そここそが試されているということも分かってる。
でももうだめだ。限界だ。僕は。