昨日は大雨で電車が止まって難儀しました

技術や思想は「正しさ」ではなくて

技術や思想は理論に裏打ちされていて、論理的にいかに強靭かということを提唱者や賛同し普及に務める人は考えます。それを第三者に伝えることも、悪くはないでしょう。論理的にしっかりしているのだから安心して信用、採用、同意してもらっていいですよ、というアプローチですね。

でも、おうおうにしてそれは通じない。結局正しさで選んでいるわけではないのです。例えば、ある新しいものを取り入れ乗り換えるとき、それまで自分が行ってきた説明や形成してきた同意を翻すことになったとして、その翻意を自分のエリアで共有可能かどうかが重要です。

大切なことは、自分が帰属する集団において、自分の立ち位置が合意圏に含まれていることなのです。変化は、ぼんやりと共有されている合意群をゆさぶります。その結果を予測することがまったくできないわけではないし、予測して行動する(時はする)のですが、その結果は必ずしも簡単な原理原則で予測し制御できるとはいえず、にもかかわらず結果は極めて重要です。結果自分の足の位置が同意の輪から外れることはつまり失敗です。あるいは、誰か自分にとって大事な他の人や組織の安心をおびやかしてしまったら、これはとてもまずい。

まだうまく言えませんが、日本的組織運営や日本的合意形成みたいなことを、上記のようなイメージで捉えています。

で、最初の話に戻りますが、正しさはあくまで一属性に過ぎず、それ自体は評価の対象ではないのです。だから、論理的(あるいは技術的)正しさをいくら説いても(しかもなぜ分からない?といった上から口調で説いても)、ほとんど意味がないばかりか、反感を買う(聞き手のこれまでの主張や行動や立ち位置をおびやかすから)可能性が高い。聞き手の行動としては、とりあえず否定しておいて、一応話は聞いておいて、あとで自分の今後の戦略の中で使えるかどうかを判断して、使えるなら使うかもしれない、ということはあるかもしれません。

まずは話そう、話せば分かる、といいます。話し合うことで合意形成ができないわけではない。しかし、日本的コミュニケーションや組織形成では、ノンバーバルな要素が強いし、論理性よりも、物語性の方が重要に感じます。発言は、相手のこれまで(の立ち位置や主義主張など)を十分に慮ったものでなければなりません。生煮えの(影響の一面しか見れていない)意見は危険なので、十分に隔離された環境で、あくまでも私的に持ち出す必要があります。

というようなことを、以下のWeb記事を読んでいて思いました。内容的には上記の論と直接関係ありません。